ポンペイウス劇場
グナエウス・ポンペイウスは二期目の執政官の任期中に、政治家としての人気を勝ち取るべく自らの名を冠した劇場の建設資
金を出した。単なる劇場としてだけでなく、様々な用途で使われた。全てのローマ劇場には "crypta" があるが、この劇場の
cryptaは非常に大きい。舞台の後ろに位置しており、観客が上演と上演の合間にそこで飲食物を購入したり、日差しや雨から
逃れるために柱廊玄関に行くために使った(客席に屋根がないため)。ポンペイウス回廊 (Porticus Pompei) には偉大な芸術
家や俳優の像が並んでいた。長いアーケードには絵画や彫刻が展示されているだけでなく、その広い空間が公的な集会に適し
ていたため、ローマ人は観劇以外にも様々な理由でそこに赴いた。
この建築物の最も高い部分はウェヌス・ウィクトリクスの神殿であり、ポンペイウス個人の神である(これに対してユリウス
・カエサル個人の神はウェヌス・ゲネトリクスだった)。現代の学者の中にはそれが純粋な信心を表したものではないと考え
、基本的に劇場に神殿が付属しているのは、その建築物が自己宣伝の贅沢なものと見られるのを避け、常設劇場建築物への非
難に打ち勝つためだったと言われている。
劇場に繋がっていた東側のポルチコと4つあった神殿のうちの3つの遺跡がトッレ・アルジェンティーナ広場にある。これらの
神殿は古くから劇場と関連付けられていた。4つめの神殿の大部分は現代のローマの通りの下に眠っている。この遺跡はベニー
ト・ムッソリーニの命によって1920年代から1930年代に発掘された。劇場本体の遺構は Via di Grotta Pinta 周辺の地下から
わずかだけ見つかっている。付近のレストランの地下室にこの劇場の本来のヴォールトが残っており、ホテル Albergo Sole
al Biscione の壁の一部もこの劇場のものである。このことから、劇場の建築物を完全に解体する以前から、何世紀にも渡っ
てその建築物を改造して利用してきたことがうかがえる。一階部分や観客席の一部と同様に劇場の基礎部分も現存しているが
、その上の構造は何度も建てかえられ、今では現代の建築物の一部になっている。
紀元前55年から1455年までの劇場の長い歴史の中で、何度か火災があり、その度に修復されてきた。最終的に修復されなくな
ると、劇場を構成していた石を再利用する採石場となった。
ローマ劇場は、その元になったギリシア劇場と特徴が似ている。一般にローマの建築はギリシアの影響を強く受けており、劇
場の構造設計もその点では他の建物と変わらない。しかし、ギリシア劇場は地面を掘ったり、丘の斜面を利用して建設されて
いたのに対して、ローマ劇場は平らな地面に基礎を築いて建てられており、全ての方向が囲われているという違いがある。ロ
ーマ劇場は、ローマ初の常設劇場であるポンペイウス劇場の基本設計を踏襲している。
この建築物以前、ローマでは常設の劇場を建てないという不文律があった。劇場は多数の市民を集めて、演説や演技で群集を
熱狂させるため危険と考えられていたからである。そのため、劇場もコロシアムも木造建築で、すぐに構築・解体できるよう
になっていた。
ポンペイウスがこの劇場を建設することを思い立ったのには、いくつかの理由がある。政治的には、支援者の集会場所として
利用可能だった。また、この建物がきっかけとなって帝政期のフォルムが建設された。実際、ユリウス・カエサルはポンペイ
ウス劇場を見て自身のフォルム建設を思い立ち、その後歴代のa href="http://www.deli-ibaraki.net/"target="_blank">皇帝がフォルムを建設することになった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ユリウス・カエサルが暗殺された場所として有名な場所なんだそうです。